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ぶらり四季散歩 名古屋・笠寺観音(天林山 笠覆寺)の歴史
笠覆寺は南区の住宅地に鎮座する真言宗智山派の寺院です。山号は天林山。通称は笠寺観音(かさでらかんのん)
創建は寺伝によると733年で、善光という僧侶が流木から彫った観音像を祀ったのが草創
その後荒廃するも、再建されて現在の寺号になった
明治期には廃仏毀釈により荒廃しますが、昭和期に復興されて現在に至ります
境内には大規模な本堂があるほか、楼門や多宝塔などがあります
開基は善光上人、観音像を彫り、寺を建立する
- 天平五年(733)のある日、呼続(よびつぎ)の浜辺に一本の浮木が漂着し、夜な夜な不思議な光を放ち、付近の者はそれを見て恐れた
- 近くに住んでいた僧・善光(ぜんこう)上人は、夢の中で不思議なお告げを受け、その漂木を刻んで十一面観世音菩薩の尊像を造り、粕畠(かすばた:現在の笠寺より約650m南)の地に、堂を建立
- そこに観音様を安置して、天林山 小松寺(てんりんざん こまつでら)と名付けた
『笠寺』の名の始まりは玉照姫・兼平公ご夫妻と寺の復興
- 建立から百数十年を過ぎて、小松寺の堂は荒れ果てて、本尊の観音様は風雨にさらされたままになっていた
- 鳴海(なるみ)の長者にこき使われていた女人が、ずぶ濡れになっていた観音様を見て可哀想に思い、自分が冠っていた笠をとり、観音様にかぶせた
- 後日、鳴海に寄った、都の貴族、中将・藤原兼平(ふじわらのかねひら)公がその心優しき娘をみそめ、妻として迎える事となった。彼女はその後「玉照姫(たまてるひめ)」と呼ばれた
- この縁によって、後にこの夫妻は現在の地に寺を復興し、寺の名を小松寺から、「笠覆寺(りゅうふくじ)」と改め「笠寺観音」との名で呼びならわされるこの笠覆寺は『笠寺』の地名の起こりとなった
- 現在も、笠寺観音では、本尊の観音様、玉照姫・兼平公ご夫妻を安置・おつとめ申し上げている
厄よけ&縁結びの観音様として信仰
苦境にあった娘と青年貴族を結びつけたことから、厄よけ&縁結びの観音様として信仰を集めた

鎌倉期の中興は阿願上人




- 鎌倉時代、嘉禎四年(1238)僧・阿願上人の発願によって、再び諸堂や塔が建立され、旧観を取り戻した
- 鐘楼(しょうろう=鐘つき堂)に安置されている梵鐘はこの際に造られたもので、尾張三名鐘(おわりさんめいしょう)の一つに数えられ、現在、愛知県指定文化財に指定
近代に入って改良事業



- 幾度かの再建を経て、現在の堂塔は江戸時代に建てられたものであるが、明治にいたるまでには建物、尊像、宝物、什物、土地などの散逸があった
- 二次世界大戦の敗戦のころまでには境内のここかしこに生えていた松の木も戦争や資金難の事情から伐採されることとなった
- 敗戦ののちしばらくして住職となる政識和尚は、19歳であった大正年間から各地での托鉢などで浄財を集め、本堂の修繕などにつとめた
- 和尚は住職となってからも名士、山崎文次氏などの帰依と協力を得るなどしつつ、瓦屋根の棟に松の木が生えるまでになった本堂の修繕・改修をはじめ、山容整備につとめた


本堂内にある抱き地蔵



- 本堂の中には「おもかる地蔵」という小さなお地蔵さまが並んでます
- 「抱き地蔵」とも呼ばれていて、お願いごとを心に思いながら、身をかがめて、そっとお地蔵様を抱き上げてお参りします
- その願い事によって感じる重さが違うらしい
- これは是非やらねば。結果は……ちょっと重かった……叶うまで時間かかるってこと……?


アクセス

ぶらり四季散歩 名古屋・まとめ
尾張四観音の一つ「笠寺観音」は名古屋市の南部に位置し、かなりにぎわってます。6のつく日に開催される青空市「六の市」は多数の人でにぎわいます。
