・長母寺(ちょうぼじ)は平安末期の創建で、鎌倉中期に臨済宗に改宗し、現在に至っている
・無住和尚の説教に発するという「尾張万歳」発祥の地として広く知られている
・本堂は方丈形式の建物で濃尾大地震後の再建であるが由緒ある寺院の中心建築として親しまれている

長母寺の歴史






治承3年(1179年)にこの地の領主であった山田重忠の開基により創建され、当初は天台宗に属しており亀鐘山桃尾寺と号した
弘長3年(1263年)に無住一円が入寺して以降禅宗寺院となり、山号・寺号が現在のものに改められ、一時末寺93ヶ寺を数えるほど隆盛した。また、無住はこの寺で『沙石集』のほか『正應年中萬歳楽』を著し、これが尾張万歳の起源となったとされる
中世には代々武家の帰依を得て北条氏・足利氏・織田氏などから寺領を寄進され、文禄年間(1593年 – 1596年)の太閤検地によって寺領が没収され一時衰退した時期もある
天和2年(江戸時代前期、1682年)に尾張藩二代目藩主徳川光友の命により、禅僧・雪渓恵恭が再興
明和4年(1767年)7月、かつて、矢田川橋から菅田あたりは一面大きな池となっていた。当初、矢田川は、長母寺の南を流れていたため、長母寺と宝勝寺(現:守山区)とは地続きであった。大雨による矢田川決壊に伴い、矢田川が長母寺と宝勝寺の間を押し破り、流路が変わったことで守山から切り離された
なお、長母寺付近を流れる矢田川は、1868年(明治元年)、1896年(明治29年)、1903年(明治36年)、1911年(明治44年)、1925年(大正14年)と、明治以降になっても度々洪水を起こして
明治24年(1891年)、濃尾地震により本堂倒壊されたが、その後再建されている
長母寺重要文化財・登録有形文化財
・国重要文化財>>>木造無住和尚坐像、無住道暁筆文書
・県登録有形文化財>>>本堂、山門、庫裏
・無形民俗文化財>>>尾張漫才


無住国師はその後50年長母寺に住み、多くの著述を残しました。仏教を説いて万歳を作り弟子の徳若が節をつけたのが始まりといわれ、農民の農閑期における出稼ぎとして発展したものだそうです
長母寺名前のいわれ



長母寺は治承3年(1176)に山田次郎重忠が熱田明神から、「木賀崎は佛法興隆の霊地であるから梵刹を建立せよ」との夢のお告げを受けて,母の菩提を弔うため建立したと伝えられています(長母寺縁起)。
最初は天台宗でしたが無住国師が来住し臨済宗に改め霊鷲山長母寺と称するようになりました。


長母寺に伝わる民話
ヒノキの芽

本堂横の石垣の柵(伊藤萬蔵寄進)の中にある、椿・山茶花・榊・ねずみもちなどの木に“檜の芽”といわれる寄生木が見られます。これは国師入定の時「私はこれからあの世に行くが、もしあの世に極楽があるなら、この木に“檜の芽”を生やしてやろう」と言い、檜の枝で身体を清めて亡くなられた。暫くして種々の木に檜の芽が生じたので、極楽がある証拠の木ということで国師の奇端の一つとされている。柵の中、周辺にしか生えないのだそうです。
お地蔵・・・古老の話




幼い子どもが亡くなると賽の河原で石を積むのだが、鬼が来て崩してしまうのだという。そんな時、お地蔵さんが鬼を追っ払ってくれるのだそうです
長母寺にはお地蔵さんが沢山おられ、開山堂の中には国師様が千体地蔵をおさめておかれたのだが、300年ほどたってどうかなってしまったのだそうです
そこで尾張二代藩主光友が、千という沢山のお地蔵さんを祀られたそうです。今は開山堂で無住国師像と共に祀られていますが通常は未公開で年に一度10月10日開示されます。国師像のレプリカは市の博物館で、いつでも見られます
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長母寺境内の風景














境内は臨済宗の禅寺であり、きれいで静か。物音は何もない。お地蔵様への願い事は時間たっぷり
お好きなだけ、して頂けます。本堂の奥にはお墓が多数あります
元守山村・長母寺(現名古屋市東区矢田3)と題して、矢田川の蛇行による長母寺の位置づけなど・・・興味があればご覧ください!
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アクセス
住所 | 愛知県名古屋市東区矢田町字寺畑2161 |
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行き方 | 名鉄瀬戸線矢田駅より徒歩で約6分 |
駐車場 | あり 山門前 |
長母寺まとめ
長母寺は歴史も由緒もある有名な寺です。特に「尾張漫才」発祥の地という事実には驚きました。矢田川河川敷を毎日散歩しているので、森に囲まれた長母寺の位置は知っています。
散歩の途中で立ち寄りましたが、いろいろな知識を持って訪れば、また感慨も異なります。
ぜひ、一度お立ちより下さい。