こんにちは、ブギウギファンの皆さん!今日は、日本のポピュラー音楽史に大きな足跡を残した作曲家・服部良一さんについてお話ししたいと思います。服部良一さんは、ジャズやブルース、タンゴなどの洋楽の影響を受けながら、和製ポップスの名曲を数多く生み出しました。特に、戦後の日本を代表するヒット曲「東京ブギウギ」は、服部良一さんの代表作として知られていますね。では、服部良一さんの経歴と作品について、詳しく見ていきましょう!
朝ドラで人気の作曲家羽鳥善一(草なぎ剛)氏のモデルとなった人『服部良一』、同じく歌手のスズ子(趣里)モデルである、『笠木シズ子』との出会いもご紹介!
ブギウギの先駆者:作曲家服部良一とは
服部良一さんの経歴
- 服部良一さんは、1907年(明治40年)10月1日に大阪で生まれました。音楽好きな家庭で育ち、小学生のころから音楽の才能を発揮しました。16歳で出雲屋少年音楽隊に入隊し、オーボエやサックスなどの管楽器を演奏しました。その後、大阪フィルハーモニック・オーケストラやタイヘイ・レコードなどで活動し、ジャズやクラシックの音楽理論を学びました。
- 1933年(昭和8年)に上京し、人形町ユニオン・ダンス・ホールでバンドリーダーとして活躍しました。1936年(昭和11年)にコロムビア・レコードの専属作曲家となり、淡谷のり子さんや霧島昇さんなどの人気歌手に楽曲を提供しました。その中でも、「別れのブルース」「雨のブルース」「蘇州夜曲」などは大ヒットし、服部良一メロディーの黄金時代を築きました。
- 太平洋戦争が始まると、服部良一さんが手がけたジャズ音楽は敵性音楽として排除されました。しかし、服部良一さんは自分の音楽を貫き続け、渡辺はま子さんや李香蘭さんなどに抒情的な歌謡曲を提供しました。1944年(昭和19年)には上海に渡り、ジャズの活動を続けました。
- 戦後は本格的に作曲活動を再開し、ブギウギという新しいリズムを取り入れた楽曲を発表しました。特に、「東京ブギウギ」は笠置シヅ子さんが歌って大ヒットし、日本中でブギウギブームが起こりました。その後も、「銀座カンカン娘」「三味線ブギウギ」「青い山脈」などの名曲を次々と生み出しました。
- 1950年(昭和25年)には笠置シヅ子さんらとともにアメリカツアーに参加し、ハワイやニューヨークなどで公演しました。その後も、映画やテレビの音楽を担当したり、オペラやミュージカルを作曲したりと、多彩な音楽活動を展開しました。1993年(平成5年)1月30日に85歳で亡くなりましたが、その功績は国民栄誉賞によって讃えられました。
服部良一さんの代表曲
服部良一さんは、約2000曲もの楽曲を作曲しましたが、その中でも特に有名なものをいくつか紹介します。
東京ブギウギ
1947年(昭和22年)に発表されたブギウギの代表曲です。笠置シヅ子さんが歌って大ヒットし、戦後の日本の復興と明るさを象徴する曲となりました。歌詞は東京の街やファッションを軽快に歌っており、当時の若者たちの気分を表現しています。服部良一さんはこの曲で第1回日本レコード大賞作曲賞を受賞しました。
銀座カンカン娘
1949年(昭和24年)に発表されたコミカルな歌謡曲です。笠置シヅ子さんとコロムビア・ナカノ・リズムボーイズが歌って大ヒットしました。歌詞は銀座のカンカンダンサーとその恋人のやりとりを描いており、服部良一さん自身が作詞した「村雨まさを」名義で発表されました。服部良一さんはこの曲で第2回日本レコード大賞作曲賞を受賞しました。
青い山脈
1949年(昭和24年)に発表された感動的な歌謡曲です。藤山一郎さんと奈良光枝さんが歌って大ヒットし、同名の映画の主題歌としても使用されました。歌詞は故郷の青い山脈を想う別れの歌で、服部良一さんはこの曲で第3回日本レコード大賞作曲賞を受賞しました。
服部良一さんは、ジャズやブルース、タンゴなどの洋楽の影響を受けながら、和製ポップスの名曲を数多く生み出しました。特に、「東京ブギウギ」は、戦後の日本を代表するヒット曲として知られています。服部良一さんは、日本のポピュラー音楽史に大きな足跡を残した作曲家として、今でも多くの人々に愛されています。
「ブギの女王」笠置シヅ子さんと「和製ブギウギ」の生みの親である作曲家・服部良一氏との出会い
こんにちは、ブギウギファンの皆さん!今日は戦後の大衆音楽史に大きな足跡を残した「ブギの女王」笠置シヅ子さんと「和製ブギウギ」の生みの親である作曲家・服部良一氏との出会い、なれそめについてお話ししたいと思います。この二人がどんな人生を歩んできたのか、どんな音楽を作り上げたのか、興味深く読んでいただければ幸いです。
笠木シズ子さんの経歴
笠置シヅ子さんは1917年に香川県高松市で生まれましたが、生後まもなく父親が亡くなり、養女として大阪で暮らす亀井夫妻のもとで育てられました。幼い頃から日本舞踊や三味線を習っており、1927年に大阪松竹楽劇部(OSK日本歌劇団の前身)に入り、「三笠静子」の芸名で初舞台を踏みました。その後、東京に移り、松竹楽劇団(SGD)に参加しましたが、当時はまだ目立った活躍はありませんでした。
転機となったのは、作曲家・服部良一氏との出会い
服部氏は幼少期からピアノやヴァイオリンを習って音楽に親しんでいました。1930年に東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入学し、作曲や指揮を学びましたが、在学中に退学してプロの音楽家として活動を始めました。1938年に帝国劇場で旗揚げされたSGDに指揮者として参加し、そこで笠置さんと出会いました。
「東京ブギウギ」の大ヒット
服部氏は笠置さんの歌唱力やパフォーマンス力に目をつけ、彼女に合わせたオリジナル曲を提供し始めました。その中でも最も有名なのが「東京ブギウギ」です。この曲は1948年1月にレコード発売されると、たちまち大ヒットしました。多くの言葉をリズミカルに早口で歌い上げる疾走感、終戦によって解禁されたジャズを中心とした米国音楽を踏襲した解放感、ジャズ風スキャット多用のハイカラ感などが当時の国民の心をつかみました。
「和製ブギウギ」の名コンビ誕生
この曲を皮切りに、笠置さんと服部氏は「和製ブギウギ」の名コンビとして数々の名曲を生み出しました。「買物ブギー」、「お富さんブギ」、「お嫁においでブギ」など、ウキウキ、ズキズキなどのオノマトペや関西弁を駆使した歌詞が特徴的でした。笠置さんは付けまつげをばたつかせ、大きな口を開けて叫ぶように歌い、スカートを気にすることなく足を上げて踊り、客席に向かって掛け声をかけるなど、見ている者に一緒に踊って歌って楽しみたくなるような快い躍動感を与えてくれました。
笠置さんと服部氏は、音楽だけでなく人間的にも深い絆の結びつき
笠置さんと服部氏は、音楽だけでなく人間的にも深い絆で結ばれていました。笠置さんは戦時中に吉本興業の社長・吉本穎右氏と恋愛関係にありましたが、彼が戦死した後は服部氏に心を寄せるようになりました。しかし、服部氏は既婚者であり、笠置さんは彼の家庭を壊すことはできませんでした。そのため、二人は師弟関係として表向きの関係を保ちつつ、密かに愛し合っていました。
1951年に笠置さんは歌手引退宣言をしましたが、その理由の一つは服部氏との関係にあったと言われています。笠置さんはその後も時々舞台に立ちましたが、服部氏との共演はほとんどありませんでした。二人の関係は最後まで明らかにされることはありませんでしたが、服部氏が1993年に亡くなった後、彼の遺品から笠置さんからの手紙や写真が多数見つかりました。それらは二人の愛の証として今も残されています。
まとめ
笠置さんと服部氏は、戦後の日本の音楽界に大きな影響を与えた偉大なアーティストです。彼らの作品は今でも多くの人々に愛されています。私も彼らの音楽に感動し、勇気づけられました。皆さんもぜひ一度聴いてみてください。ブギウギファンの仲間入りをお待ちしています!
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